チビチリガマ荒らして逮少年逮捕!チビチリガマの決意と集団自決。
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チビチリガマ損壊で少年4人逮捕
太平洋戦争末期の沖縄戦で80人を超える住民が「集団自決」した沖縄県読谷(よみたん)村の壕(ごう)「チビチリガマ」が荒らされた事件で、沖縄県警嘉手納署は15日夜、沖縄本島中部の無職少年ら4人(16~19歳)を器物損壊容疑で逮捕した。
発表によると、4人は共謀し、5日正午から12日午前11時までの間に、村指定文化財のチビチリガマで看板や額、千羽鶴を損壊した疑い。
引用 Yahooニュース
チビチリガマとは?
「チビチリ」は「チビ」が「尻」を、「チリ」が=「切る」を意味する。
チビチリガマは浅い谷の底にあるが、谷底を流れる細い川がチビチリガマへ流れていくが、最後はどこへ流れていくかわからないことからこの名が付いた。
集団自決が行われたチビチリガマから南東600mm離れたシムクガマでは集団自決が行われなかった。
戦時中のチビチリガマで何があったのか?
4月1日、アメリカ兵がチビチリガマへ最初に来た際、ガマの入り口まで降りて「デテコイ」と呼びかけて去っていった。
「鬼畜米英」と教えられていたアメリカ兵が突然目の前に現れたことで、村民は恐怖のあまりパニック状態に陥るが、その時18歳の女性が「アメリカを恐れることはない。竹槍で戦いなさい」と言ったことで落ち着きを取り戻した。
チビチリガマやシムクガマに避難した住民は全員竹槍を持ち込んでいたが、アメリカ軍が浜から上陸したことを知らない住民たちは、敵は落下傘で降りて来ただろうから人数も少ないから竹槍で十分戦えると考え、竹槍を手に取り入り口に向かった。
村民の一部は、「殺せ」「やっつけろ」「天皇陛下万歳」と口々に叫び、ガマから飛び出して突撃し、2メートルほどの竹槍を、7メートル以上上のガマの崖上に並んでいたアメリカ兵に向かって突き出した。
崖の上から機関銃や手榴弾の攻撃が降り注ぎ、先頭にいた2人の男が狙撃された。アメリカ兵は救出をあきらめて立ち去り、「安心して出てきなさい」といった内容のビラと一緒にチョコレートや缶詰、タバコを置いていったが誰もビラを信じず、食べ物を口にする者は一人もいなかった。
元日本兵を名乗る男が、ガマ内の前と奥をつなぐ場所に持ち込んでいた布団を積み上げて火をかけ、煙により死のうとしたとき、一人の女が炎に飛びかかり山を崩し火を消した。
4月2日時点のガマは、過密状態で風が通らず、酸欠状態になっていた。午前8時頃に再びアメリカ兵が来て、ガマから出るよう呼びかけるが、元日本兵の「出て行けば殺される」という言葉を信じ、ガマを出る者はいなかった。
その後、娘から「殺して」と頼まれた一人の母親が、娘の首を包丁で刺した後、続いて息子を包丁で刺すと、自決する者が続出し、元日本兵が再び火を付けると、炎と煙がガマ内に充満した。
煙で苦しむよりはアメリカ兵に撃たれて楽に死のうと考えた者はガマの外に出たことで助かり、都屋の収容所に移送された。
チビチリガマへは世帯数31、総人口194名のうち139名が入ったが、自決者数は82名(85人とする場合あり[1])、死亡率は60%に上り、その過半数が子どもであった。
引用 wikipedia
チビチリガマの場所
集団自決が行われなかったシムクガワとは?
「シムク」は「シム」が「下」を、「ク」が「向」を意味し、シムクガマも谷の下にあることからこの名が付いたといわれる。
ガマ内の温度は通年ほぼ一定しており、夏は涼しく冬は暖かいことから、村民は憩いの場として利用していた。
戦時中のシムクガマでは?
4月1日午前5時30分、砲撃が開始されると、警防団に集合命令がかかり、ガマの入り口付近で見張りをしていた。
午前10時頃にアメリカ兵はシムクガマに到達し、「出てこい」と呼びかけるが、チビチリガマ同様、ガマを出る者はいなかった。
自決するべきという意志が村民の間で広まっていき、子どもの警防団員らが、竹槍を持ってアメリカ兵へ突撃しようと動き出したとき、もとハワイ移民であった住民が少年たちを止め、アメリカ兵と対話したところ、手向かいしない限り殺さないのでガマを出るように伝えられたため、村民たちを説得した。
その結果、シムクガマからは1000名あまりの村民が自決することなく脱出した。
引用 wikipedia
シムクガマの場所
遺品破壊は墓荒らしと同じ
少年達が遊び本位で行ったチビチリガマは戦時中にとても悲しい集団自決が行われた場所であり、遺族の方にとっては墓石と同じようなものです。
少年達が自分の親や身内のお墓を荒らされたらどう思うのでしょうか?
それが分かるのはまだ先の事でしょう。
参照画像 Googleマップ